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2017 | 2006 |
むかし、白浜には、偉いお坊さんが二人おりました。二人は仏さまの教えを全国に広めるため、いろんな修行を積み重ね諸国を歩きました。お坊さんの名は、西春法師(さいしゅんほうし)と実浄上人(じつじょうしょうにん)の二人で西春は西横渚に眠り、実浄は原で入定しました。入定とは、お坊さんの信じていた仏教の中の弥勒菩薩さまの世界でお釈迦さまが死んだ後、五六億七千万年後に弥勒菩薩さまと共にこの世に出現してお釈迦さまの救い残した人々を救うという仏説です。この二人のお坊さんが白浜で活躍したのは江戸時代、約二世紀の時の隔たりがあります。西春法師は寛文七年(一六六七)三月に三一歳という若さで入定したと云われ、その一九一年後の安政四年(一八五八)四月に実浄上人(年齢不詳)が入定したと石碑に刻まれています。この時代は、世の中は安定しておりましたが、天候が不順で農作物がまったく取れなかった飢饉の年もあったり、大地震や火山の噴火で民衆は苦しむことが多かったとのことです。また、悪い病気が流行り、満足な治療も薬もありませんので病気も中々、治りませんでした。そんな世の中で人々は、お坊さんに教えを求めたり、助けを求めたりしました。西春法師は、地元の青木出身で子供の頃から超人で「海の上を歩いた」などの話しが伝えられています。また、実浄上人の生まれた所は、よくわかりませんが上総の僧や天津出身の僧との言い伝えがあります。二人のお坊さんは、修行を終え白浜の地で村人を救うため、自ら生きたまま、真っ暗な石室に入り(入定)、座禅を組み、生きている間、念仏を唱えて白浜を救った英雄の僧です。二人の塚は入定様と呼ばれ、今でも地区の人々の深い信仰に守られて、お参りする人が絶えません。現実にあったお話しとして、二ヶ所の入定塚は白浜町の指定文化財として地元民と共に大切に保存されています。《白浜の昔ばなし》
西春法師の縁日《入定まち》
二〇〇六年の千倉「新吾の場」での市を見学して以来の訪問となったが、入定塚の露天商がかなり減少している。露店は「野菜苗1店舗、道具屋1店舗、たこ焼・お好み焼・大判焼・水あめ」のみで、広場は子供もいなく静かで活気が無かった。時折訪れる地元の婦人方が入定塚に祈りを奉げ、露店で買い物をしていた。