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2015 | 2009 |
八街神社は、明治五年五月(一八七二)、武蔵国足立郡高鼻村(現埼玉県大宮市)に鎮座する元官弊社 氷川神社の分霊を招き、氷川台に社殿を造営して「氷川様」と称していました。明治六年十一月二三日(一八七三)官許を得て、八街神社となり明治十三年十一月二日(一八八〇)祭儀を執行し、明治二七年(一八九四)に現地に社殿が完成遷座されました。現在は、一区、二区、三区、四区、五区、六区、七区、西林区、夕日丘区、真井原区、大東区の十一集落の鎮守様として祀られています。各地区から山車が出され、大年番区では御神輿を担ぎ市内を練り歩きます。日曜日は市役所駐車場にて、山車の競演が行われ、祭りの最高潮となります。当日は、一区、二区、三区、四区、五区、六区、大東区の七台の屋台が午前十時頃から二一時頃まで、JR八街駅周辺などを練り歩きます。初日の土曜日は各区で屋台の巡幸が行われます。翌日曜には市役所に集結します(十三時〜十五時三〇分)。
八街秋祭り
◆小間子牧野馬捕込跡(のまとっこめ)
小間子牧は、江戸幕府が軍用に供する野馬を放牧し管理するために設置した佐倉七牧(油田牧・矢作牧・取香牧・内野牧・高野牧・柳沢牧・小間子牧)の一つである。この捕込は、寛丈二年(一六六二)に小間子牧と柳沢牧が分割された際に築造されたものとされ、以後、明治七年(一八七四)に最後の野馬捕りが行われるまでの二百年以上にわたり使用された。補込は、野馬を一ヵ所に集めて選別するための施設で、まず外側の大込と呼ばれる区域に集め、さらにこの補込に追い込んで野馬を捕らえた。軍用馬にならない馬は農耕馬や役馬として農民に払い下げられ、親馬や幼い馬は再び野に放たれた。野馬が捕込に追い込まれる様子は豪快で、当時は多くの見物客で賑わった。この補込跡の規模は、南北長的九十五b、東西長約六十五b、土手高三〜四b、面積は全体で約五千平方b、内部では約二千五百平方bを測る。現状では、内部は二室に区画されているが、平成四年に実施した補込内の発掘調査により、実際には三室に区画されていたことが確認された。現在、佐倉七牧の中で補込跡が残っているのは油田・取香・高野・小間子牧のみとなり、近世牧を象徴する遺跡として極めて貴重である。※この捕込跡は、地権者や地元の人たちが、長い間守り続けてきた貴重な文化財です。土手に登ると遺跡が壊れてしまいますので、土手には絶対に立ち入らないでください。
八街市教育委員会・文化財審議会