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2015 |
獅子舞は、里神楽の系統で、獅子神楽ともいわれ、田楽的で能や狂言の要素を含みながら発達したものである。したがって狂言用の仮面を多く使う。神社の祭礼に奉納されながら、初期は音楽や踊りを単純素朴に奏してしたが、次第に発達して余興が多くなり演劇等も加わった。南日当の獅子舞は、江戸時代末期、山武郡から伝承したといい、初期流派を小錦流と呼んで荒神楽の多いのが特徴とされた。明治中期には近隣の獅子連と盛んに競演して常に好評を博した。大正時代に俳優小佐川重章が芝居を獅子舞に織り込んで、演技に新風を添えた。運営は長く世話人制の獅子連があたったが、現在は保存会で行っている。おもな演目は、囃に鎌倉、中山、お染、馬鹿、東金、本納等の各囃子と、天の岩戸開き、鈴と御幣の平獅子から、蛇遊び、四っ足、亀と舞う、草刈り、達磨取り、蝶等の下手舞がある。
南日当の獅子舞
◎水神社の由緒
水神社は水波賣命を祭り慶長六年、時の領主加藤主膳守の時代に地頭守屋八兵衛が現在地に権現造りの本殿を建立した。その後、享保二年卯十二月、時の代官坂上安右衛門が勘定奉行長坂孫七郎の許しを得て社殿を増築した。その後、明治十九年に社殿の破損が甚だしかったので現在の社殿を新築したものである。当時、九十九里海岸で、ながらみ貝の豊漁が続き、それらを賣る商人が達が祠(後の榎神社)を信仰し莫大な寄進をした。同じ頃、広範囲にわたり疫病が流行し住民達の祠に対する信仰心が更に高まり、多大の寄進を奉納したと伝われている。それら奉納金の蓄積が社殿新築の資金源となり後に「ながらみ毘射」の名称の起因になったという。(資料・故片岡賢司翁)その後、一〇八年間を経過し拝殿が再び腐朽化したので、平成六年五月氏子一同によりその改築が実現されたのである。(平成六年六月記)
※獅子舞は拝殿内で舞うが、外から撮影可能で、獅子が隣の社殿にも祈祷に行く。
※参道内に駐車可能だが、直会により出られなくなるので駐車場所には注意する。
※南日当(みなみひなた)