房総の祭事記 〜千葉の郷土芸能と民俗行事〜 モドル ホーム

鶴峯八幡宮例大祭 〜御浜出神事'14〜

◆◇由緒◇◆
元正天皇の養老二(七一八)年(一説では清和天皇の貞観二年)に、八幡浦が大風涛に見舞われ収まらず、漁師が困窮した。この時、国司の夢枕に「八幡様にお祈りしなさい」とお告げがあった。国司が神助を祈願したところ、風涛が収まった。漁師たちは神社を創建し、八幡様を勧請。ご神徳を奉謝した。その後、源頼朝が安房から北上してこの地を通った際、武運長久を祈願して、短刀を奉納したとも伝えられる。さらに、室町時代に房総に進攻した武田氏の一族が、真里谷氏と名乗って佐貫城に入った。その際、当宮を城下西方の守護神として尊崇した。永正四(一五一七)年十一月二十八日の棟札(市文化財指定)が、その証左として残されている。この時の当主は武田式部太夫源朝臣信綱。真里谷氏に代わって佐貫城主となった里見氏に、社領三千石を寄進し、特に里見義弘は太刀一振りを奉納し、祈願の誠を尽くした。江戸時代に入っても、佐貫城主・内藤家長が三十石を寄進。次いで寛永十六(一六三九)年、松平勝隆および重治も二十石を寄進した。宝永七(一七一〇)年、佐貫に入府した阿部氏も同石高を寄進し、特に阿部因幡守は二十石と山林七町七反七畝を寄進した。明治二十七(一八九五)年には御社殿が修造され、昭和四(一九二九)年の改修工事では御本殿の屋根を銅板葺きとした。同時に幣殿、拝殿を新築した。平成二(一九九〇)年七月一日には、神社本庁神社振興対策指定神社となる。これを受けて、透塀を新築し、境内参道の敷石工事を完了。同七(一九九五)年に社務所前の石造鳥居を粟島社に移築して、銅製の大鳥居を奉製した。同十四(二〇〇二)年、御神輿殿を新築。同十八(二〇〇六)年、三基目の御神輿が完成した。

◆◇神社と周辺◇◆
社前の厳島神社境内に、天明の水飢饉でも枯れずに近隣の人々を救った「延命の井戸」がある。また、鳥居前正面の石段両側にある大きな御影石は「豆腐石」と呼ばれ、寛政十一(一七九九)年のころ、佐貫城家老・白井六郎衛門が主命と称して、この巨石を引き上げさせたといわれる。二個とも大坪の浦の海中にあったものとされ、まだ二個残っているという説も。

鶴峯八幡宮例大祭 御浜出神事


土曜(宵宮)
14:00 大祭式斎行・大幟奉納修祓式
18:00 獅子巡幸
22:00 終了

日曜(本祭)
08:00 祭礼開始・子供神輿巡幸・各区オブリ搬入(十一時四〇分で最終)
12:30 発輿式・御浜出神事
13:50 大人神輿各区巡行
14:00 行列還御
18:00 御神輿宮入・奉祝散餅

上総天羽郡総社の鶴峰八幡宮で行われる例大祭。
毎年九月十五日(直前の土日)に行われる。
宵宮は十八時から、木遣りを先導に雄雌の獅子が厄払いの巡行を行う。終了は二十二時頃。

本祭の午前七時に祭礼の開始を告げる、花火が上がる。午前中は区内を子供神輿が巡り、神前に各區より「おぶり」が奉納される。御浜降り行列は、十二時半から神主が祝詞をあげて始まり、「木遣り唄」と「厄払いの獅子」を先頭に、「神主・猿田彦・太刀・弓矢・槍・榊・區旗・神紋旗・三つ巴旗・御幣・槍・二基の子供神輿・三基の大人神輿」と連なり、社前から約五〇〇mの御浜降りを行う。行列には、「鶴峰八幡宮・八幡區・鶴岡區・笹毛區・花香谷區・大坪區・宝竜寺區・中村一區・中村二區・佐貫區・東佐貫區・亀沢區」の區旗が参列する。また、浜に最初に降りるのは、年番区の神輿だが海へは入らず、波打ち際で折返し祭場へ鎮座する。年番区ではない、大人神輿二基は禊行い、全ての神輿が浜の祭場へ鎮座した後に神事が行われる。神事が終了した後は、「獅子・行列・子供神輿二基」は還幸の行列を行い、十四時頃に社前へ到着する。大人神輿は御浜降りの祭場から、各区内を巡幸し、十八時頃に社前へ還幸し、餅蒔きが行われる。鳥居前の弁天宮横には、山車が飾り置きされ御囃子を奏でている。
※神社の駐車場は数ヶ所に点在してあるが、新舞子海水浴場の海側に止めれば問題が無い。

奉納日:九月十五日 直前の土日 / 十五日が「敬老の日」なら、その日を本祭とする
伝承地:千葉県富津市八幡143 鶴峰八幡宮(鶴峯八幡神社)