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2019 | 2013 |
“宝田へ行くなら二四日は避けよ”という言葉があります。なぜかといえば、毎月の二四日だけは一切酒を飲まず、来客者にも酒を出さないという珍しい風習が残っているからです。「今でも宝田では、結婚式や葬式は二四日には行わないですよ」と地元の人は言います。その由来は、昔、隣村との境界争いに勝つため、愛宕様に祈願し、縁日(二四日)には酒を断って成就したという説や、祭礼の夜、酒を飲み火の不始末から出火した村人が、これを愛宕様のたたりと考え、その後縁日には酒を飲まなくなったなどの言い伝えが残っています。愛宕神社は、火結神を祀り、昔から「火伏せの神様」として広く知られています。『印旛郡誌』によれば文禄三年(一五九四)の創建とされ、地元では「お愛宕様」の名で親しまれています。愛宕様の信者は、講社(団体)を組織し、現在、市内を中心に富里市・八街市・栄町などに約三〇〇〇人の講社員がいます。毎年二月二四日の祭礼当日ともなると、参道には二十前後の露店が並び、神社付近の通りは人の往来が絶えず、この日ばかりは静かな田園地帯も大いににぎわいを見せます。神社の運営は、宝田七地区の中から選ばれた三人の神社総代(三年交代)が中心となります。総代は、初年にすべての講社の世話人(代表者)にあいさつ回りを済ませ、万一講社員の家が火事になると火事見舞いにも行きます。そして祭礼を行うために、前年の十一月からお札の作成などの準備を始めます。祭礼前日は若衆によるお籠もりが行われ、当日、代参と呼ばれる講社の代表者に出す赤飯弁当は、十五年ほど前までは、宝田全戸からもち米を集め、夜を徹して総代の家で親戚や郭(班)の人たちに協力してもらいながら用意したそうです。また、宝田に来た花嫁・花婿が、初めての祭礼に参拝する伝統は、今も残っています。愛宕神社の祭礼は、地元の愛宕様への深い信仰と快く信者を迎えようとするために、大勢の人々が労を惜しまない宝田最大の年中行事です。《広報なりた 2003/02/15号 成田歴史玉手箱 21回 〜火伏せの神様〜》
火伏せの神様
毎年二月二四日は成田市宝田地区にある、火伏の神である愛宕神社と医王寺(火防霊尊)の縁日で、
「八生・成田・中郷・遠山・久住・豊住・公津・栄町・酒々井・富里・八街」などから講社(団体)の方々が訪れる。
もともとは麓にある、医王寺と愛宕神社は同じ神様を祀っていたが、明治時代の神仏分離令で分離され今の形になった。