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2013 |
◎神殿賜舞神楽 由来
◆神殿賜舞神楽と称しますのは、凡そ今から六〇〇年前、時の関東管領足利持氏の頃、この房州安房の国には東条氏と安西氏の両雄が割拠して居て互いにその覇権を争っていた。そこへ元上野の国碓氷郡里見の豪族であった里見政太郎義実という人が相州衣笠の城主三浦大助の知遇にあった関係からその人の助言援軍を得て、嘉吉元年四月頼州久里浜より海港を渡り、房州の南端白浜村に揚兵旗挙して宝徳三年(西紀一四四四年)に東条、安西の両氏を滅ぼして、この安房の国の豪族として覇権を握り、その後更に進んで上総下総の二国を席捲領有して、当時所謂戦国時代に於いて各地に群雄割拠の混乱期に、里見九代に渡って全盛を極めたのは当時では稀有の存在であった。◆それで始めは館山に本城を築いて各要所には堅固な城砦を設けたが、中でもこの長狭街道は館山本城を守るに最後の拠線路として重要視され、八丁より大井、平群を経て館山に直通するこの街道には本城を守る殿りの地として八丁畷に陣屋を設け嶺岡砦と共に最強の布陣を敷いたのである。なお、その上、古人は皆な神仏の加護に頼る念が非常に強く、神仏を最高に尊敬したので必ず要所には守護神を祭ったものであります。それで、本城館山の安房神宮を宰司として、この長狭街道筋には鴨川に諏訪神社、於宮と吉保に八幡神社の三殿を祭り、これを長狭守護三神と称して、領土の加護と領民の安穏を祈念され、毎年この三殿の例大祭には特に城主より使者と幣帛が遣わされ、盛大な祭典儀式が行われた時、神殿に於いて獅子舞の神楽が奉納されたのがこの神殿賜舞神楽の由来で、その時にこの神楽が直接城主より伝承されたので、賜舞と称されるのであります。◆それが今日私共に至まで綿々と永い間受け継がれて来たのであります。この賜舞神楽は誠に厳粛な舞踊の中にも道義的な悟りと、情味のあるユーモアを含んだ凡そ二時間に渡る演技であります。数多くの神楽舞踊の中で、これは絶対に類のない他の地方には見られないものであります。なお、この神楽は徳川幕府に至ってから関東十二組と称せられる参殿奉納神楽の列に加えられ、毎年八月江戸城本丸に関東八州から集い吹上御苑に於いて将軍以下諸大名の上覧に奉納された由来の深い古典芸術で、このことは神楽研究家の泰斗として知られる西角井正慶氏の文献にも明らかに書述されてあります。更に、昭和三八年四月靖国神社の例大祭には特別の御許可を賜り御舞殿に於きまして御奉納申し上げ過分の賞賛を受け、宮司筑波藤磨殿より感謝状まで拝受いたす光栄に浴し、なお今後、毎年春秋の例大祭には奉納の儀を差し許され、重なる光栄に保存会一同は恐催いたしておる次第でございます。《鴨川市
神殿賜舞神楽保存会》
曹洞宗 冨川山長安寺 節分会
平成廿五年二月三日 当日次第
「みんなみの里」の近くにある、長安寺で節分会が行われ、地元の獅子神楽が午前と午後の二回演じられた。
※駐車場あり