|
2011 |
『長岡神楽由来記』によると、天明三年(一七八三年)七月の浅間山大噴火の灰が当地方にも三昼夜にわたり降ったため、困惑した村人が神社に集まり、神に供物をあげ歌や舞を踊り祈願したところ、三日目の朝にようやく日が差してきたので村人は安堵した。これを記念して、後に神楽舞を奉納するようになったのが起源とされている。当初は、神官が舞っていたが、明治の中頃より氏子が神楽師として舞うようになり、笛、太鼓、謡いの音曲まで伝承するようになった。神楽師は七・八年勤めたあと後継者の師匠となり、一世二世と伝承されてきたが、十三世まで続けた後、社会環境の変化で後継者の育成が難しくなり、平成五年の奉納から中断してしまった。平成十四年(二〇〇二年)神楽祭二百年の式典が行われた時、古い神楽師の有志が三演目だけを奉納したことから神楽復活の気運が生まれ、長岡区全体の問題として地域活性化の願いを込めて神楽保存会が結成され、十四世の神楽師が生まれて平成十六年から復活した。演目は次の十一番、この間に稚児舞が二番演じられる。猿田彦大神、天鈿女命、八幡大神、三宝荒神、天乙女命、天手力雄命、事代主命、春日大神、稲荷大神、種蒔翁附白狐舞、素戔嗚尊。
長岡の神楽
境内は寒さ厳しく、カメラのバッテリー2個消費、ライトの電池も終了近くで発光が弱くなりました。
撮影枚数は1274カット、8GBメモリーは素戔嗚尊の直前で満杯、4GBメモリーに交換して撮影続行。
録音はレコーダーの内蔵メモリー4GBの残容量が残り少しに…取材データ容量は写真+音源で約13GB。
撮影は、止絵ではなく、わざとブラして撮影する方法で撮りました。
この方法だと動感は出るが、良いカットがあるかPCのモニターで確認するまで分からない。