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2006 |
寺の呼称は、千光山清澄寺です。清澄山(海抜383m)は千葉県第2の高山です。祖師堂に日蓮聖人の御尊像を安置しています。 境内には、観音堂(安房国47番札所)、日蓮聖人や慈覚大師が修行した錬行場、旭が森日蓮聖人大銅像、天然記念物の大杉、きよすみしだれ桜、モリアオガエル、マルバチシヤの木、野生秋海棠などがあります。 旭が森は、初日の出を見る穴場として有名です。周辺には、アジサイの里麻綿原高原などがあります。清澄寺(せいちょうじ)は、清澄山の頂上近くにあります。宝亀2年(771年)に、不思議法師と呼ばれる僧が、この山を開いたといわれています。日蓮聖人に、最もゆかりの深い寺です。背の高い、杉の木立で埋った境内には、大きな屋根の本堂や参籠殿が建ち、神聖な雰囲気が漂います。本堂の前には、「清澄の大スギ」と呼ばれる杉の巨木があります。本堂の南には、旭が森があります。旭が森は、清澄寺の本堂より徒歩5分の所で、山並を眼下できる位置にあります。建長5年(1253年)4月28日に、日蓮聖人が、ここで朝日を拝し、初めてお題目を唱え、法華経の布教を宣言したといわれております。これを記念して日蓮宗では、毎年4月27、28日に「立教開宗会」を行います。日蓮聖人の銅像が、旭が森に建立されています。また、参籠殿には、左甚五郎作と伝えられる"鎮火牛″が残っています。他には、水面に星影を映す星の井戸、江戸時代初期の中門があります。天福元年(1233年)に、日蓮聖人が12歳で、この寺に入り僧侶となりました。その後、諸国で修行し建長5年(1253年)に、帰山しました。その後、江戸時代において、格式十万石を付与され、寛永4年(1627年)には、幕府から寺領五百石を与えられました。明治維新まで、安房上総の総氏寺として栄え、現在にいたります。境内には、寺の七百遠忌記念事業として、昭和56年(1981年)に建設された、霊宝殿があり平安朝時代からの、仏像、画像、什器、古文書等多数が、展示されています。初日の出は、6時45分頃で旭が森から、日本一早い御来光を見ることができます。また、安房七福神の布袋尊の札所でもあります。
清澄寺 宗祖御報恩会式
日蓮宗の開祖・日蓮聖人は、貞応元年(1222年)2月16日に小湊片海の地に誕生しました。その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」や時ならぬときに浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ヶ淵」、海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」という不思議な「三奇端」が伝えられています。日蓮聖人は幼名を善日麿といい、出家して清澄寺にて16歳まで仏道を修めました。17歳から21歳まで鎌倉に出て念仏や禅宗を研究しました。以後延暦寺、三井寺、法隆寺などで仏教の奥義をきわめ釈迦の本旨は法華経であると結論に達し、建長5年(1253年)32歳のとき清澄山に入り、法華宗の開宗宣言を行い、のち鎌倉に遊説に出て辻説法という新しい方法で民衆教化に努めました。念仏無間、禅天魔、真宗亡国、律国賊と罵倒し幕府の執権北条氏をわずかの小島の主とあなどり、一人独立して天下の僧俗を相手として戦いました。そのため迫害がつづき、松葉が谷の焼打、伊豆の配流、小松原の竜ノ口の法難、佐渡への遠島と生死の間を出入りする迫害にありました。彼の信念は自若として動じず、のち許され身延山にこもり著述と後進の育成に努めたが、病のため中山法華経寺に行く途中、池上本門寺で弘安5年(1282年)に没しました。