房総の祭事記 〜千葉の郷土芸能と民俗行事〜 モドル ホーム

高家神社の包丁式(新嘗祭'05)

今からおおよそ千百年余り昔、時の八十五代光孝天皇は料理に造詣が深く、光孝天皇の命により様々な料理をまとめて後世に伝えたのが四條流の祖といわれる四條中納言藤原朝臣山陰卿(あそんやまかげきょう)でした。光孝天皇の時代(平安時代)から朝廷を始め、貴族社会の人々により、宮中行事の一つとして行われてきたのが「包丁儀式」です。烏帽子、直垂をまとい、包丁とまな箸を用い、一切手を触れることなく、鯉、真鯛、真魚鰹(まながつお)などを調理します。古式に則った所作とその包丁さばきは、熟練の技。日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式です。毎年一〇月十七日(旧神嘗祭)と、十一月二三日(旧新嘗祭)に高家神社境内で包丁式の奉納が執り行われます。

「日本書紀」の第十二代景行天皇五三年冬十月の条に祭神・磐鹿六雁命について記されているが、延暦八年(七八九)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文(たかはしうじぶみ)」にさらに詳細に記述されている。景行天皇が皇子日本武尊(やまとたける)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐり)がとれた。磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を膾にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおとものべ)を賜った。この功により若狭の国、安房の国の長と定められ、以後代々子孫は膳の職を継ぎ、もし世継ぎの無いときは、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るように賜った。また、大いなる瓶(かめ=べ)に例え、高倍さまとして宮中醤院(ひしおつかさ)で醤油醸造・調味料の神として祀られている。醤には、野菜を発酵させた草醤(くさびしお)、穀物を発酵させた穀醤(こくびしお)、魚などを発酵させた肉醤(にくびしお)があった。今でいう漬物・味噌醤油・塩辛の三種だが、これらは日本料理の基礎をなすものであり、磐鹿六雁命が料理の祖神とされる由縁である。高家神社は延喜式神名帳に登載される小社の一つである。現在のところに祀られたのは江戸時代の初頭にさかのぼる。元和六年、現在の宮司の祖先となる高木吉右衛門が桜の木の下から、木像と二面の御神鏡を発見し、社を建てて祀る。二百年余りの後、この鏡面に御食津神(みけつかみ)、磐鹿六雁命と記されていたことがわかり、当時所在が明らかでなかった高家神社の御神体であるとして、文政二年に京都吉田御所に証を願い、御幣帛(ごへいはく)をいただく。神社拝殿正面の御神名額はこの時のもので、神祇道管領卜部朝臣良長(うらべあそんよしなが)の銘が刻まれている。江戸時代以降、醤油沿革史の著者・田中直太郎氏、料理法大全の石井治兵衛氏、さらには日本料理研究会初代理事長・三宅孤軒氏等の労により、祭神の御神の御神徳が発揚され今日に到っている。

奉納日:毎年10月17日(秋の例大祭)・毎年11月23日(新穀感謝祭)
伝承地:千葉県南房総市千倉町南朝夷164 高家神社