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2005 |
坂東三十三番巡礼札所の古刹、那古寺の祭礼で、那古観音の縁日に合わせて行われます。
それまで各町独自で行っていたものを、明治30年(1897年)より東藤・大芝・芝崎・浜の4町合同の祭りとし、1年交代の年番町が祭礼を行うようになりました。その後、明治43年(1910年)に寺赤、大正12年(1923年)に宿が加盟、現在では山車5基、屋台1基が那古寺に集まり、並んで町内を引き回します。そして、夜再び那古寺広場に集まり「年番渡し」を行って、祭りは終了します。
那古観音まつり
◎那古祭礼の沿革
那古観音(本尊・千手観音)は行基菩薩による養老元年(七一七)開山の古刹で時の元正天皇の勅願寺となり、源頼朝や足利・里見・徳川家代々を始め多くの人々に信仰され、明治維新の神仏分離までは、鶴谷八幡宮でその別当寺であった那古寺により仏教行事『放生会』と称する祭礼を行っていました。「明治の新政により市民平等の令布かれたるを謳歌し創めて当所に花車というもの作られ之を曳きて鶴谷八幡宮に参拝したるを起因とす。略 此の時に東藤と大芝のみが、次に芝崎、次に濱、次に寺赤、次に宿という順序にて作られ現在に及べり。略」と東藤組『當組花車及青年團沿革大要』の記述や山車建造以前にもにわかと称する祭礼余興物による祭りや、安政期には市場祭に宿町で家台があったとの口承もあり、各町独自で行っていたものを東藤・大芝・芝崎・浜の四町合同の祭として明治三〇年(一八九七)より那古観音の縁日に合わせ、一年交代の年番町が祭礼の運営を行うなど那古祭礼規約を定めて発足しました。その後明治四三年に寺赤、大正十二年に宿が加盟し今日に至っています。