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◆平群天神社のお祭りは、祭神の神輿を渡御の礼により本殿から御旅所の御仮屋(平久里下)に移し、氏子等が献灯の屋台を運び入れ、奉納花火を打上げ、祭神をお慰めする行事です。これは今日までも引き継がれており、例祭は毎年一〇月二四日に行われていましたが、平成十三年(二〇〇一)からは前の土曜日に変更しています。由緒は、祭神菅原道真が右大臣の官位を解かれ九州太宰府に配流となり、窮迫と病のため延菩三年(九〇三)に死去します。その後四〇年を経た天慶五年(九四二)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺り)に住む巫女多治比文子(たじひのあやこ)に、菅公の心霊より「わが魂を右近馬場(現在の北野天満宮境内)に祭れ」とのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りしたのが北野天満宮の発祥です。その「北野天満宮」を、文和二年(一三五三・菅原道真死去四五〇年後)細川相模守清氏(ほそかわさがみのかみきようじ)が、平群の地に勧請した天神社のお祭りです。◆神輿渡御は、各地区から選ばれた氏子が白丁(はくちょう)という白装束に烏帽子という衣装で行われ、神輿は天神社を三回まわってから鳥居をくぐり御仮屋に向かいます。御仮屋がいつ造営されたかは不明ですが、祭礼の初めは氏子の村長(むらおさ)たちが提灯を持ち寄り献灯したと言われ、後に大名行列あるいは獅子舞、神楽、棒術等の奉納演技が行われたと伝えられています。この「提灯の献灯」から、提灯をたくさん取り付けた屋台は「奉納」ではなく「奉燈」となります。担ぎ屋台の起因は、江戸時代の終わり頃伊勢参りに行った米澤村(米澤地区)の人達が、京都に立寄り豪華な山車を見て帰り、青竹や和紙などで形を作り、燈心の火あかりで担ぎ廻ったのが始まりと言われています。その後は急速に大型化し、柱は細く屋根は紙障子になり、提灯も付けられ燃え立つような屋台となりました。当時は道路が狭かったため、屋台が通れないところは平久里川を担いだので、水に映る夜景や屋台の明かりの美しさは一段と勝り、見ている人を魅了させました。笛太鼓もにぎやかに川を下ってくる屋台、川をさかのぼる屋台、いずれも御仮屋の入り口で列を正し、御旅所の芝生を踏んだと言われています。現在は、小学校隣の平群グランドに全屋台が集まります。◆「平群の祭り」と言えば平群囃子です。詳細は不明ですが、米澤地区が発祥の地と言われており、現在では房総地域のほとんどの祭礼で奏でられています。曲目は、さんぎり・馬鹿囃子・はや馬鹿・住吉・国調・祇園囃子・祇園くずし・須賀・亀山昇殿等数多くありますが、今では地区により多少変化が見られます。《ふるさと富山 〜広報とみやま・わが町歴史あれこれ総集編〜 / ふるさと富山編集委員会》
平群の担ぎ屋台
周辺の風景は田園が広がり酪農家が点在しています。
酪農の匂いが漂う中、八台の担ぎ屋台が区内を巡り、夜間には平群グラウンドでお囃子が一同に共演されます。
十三時に神輿の宮出が始まり、神輿は富山が望める場所にある仮宮に向かいます。
中区と下区の屋台がそれぞれの地域の三台の屋台を出向に行きます。
※臨時駐車場は数ヶ所に点在しています。