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2016 |
機岳山海雄寺は、もとは岬町椎木にあったが、天正二(一五七四)年一〇月、万木城土岐為頬が万木城南東の地に移し、開山慧鑑大和尚を拝請して中興開山とした。この頃は、かなり立派な伽藍の寺であったが火災にあい、明治七年に現在のお堂になった。寺には、万木城主三代の木像、位牌、土岐家の墓地、丈六の青銅造釈迦涅槃像がある。「寝釈迦」と呼ばれる釈迦涅槃像は、全長は五一六cm(十五尺七寸)。顔の長さ九五cm、頭の高さ一四〇cm、肩の高さ一一〇cmである。造営時期は正徳年間(一七一一〜一七一五年)。松丸村三代三上金三郎が本領主となり、近郷近在の多数の人々の寄進によって造りあげられたものである。像には、正徳六年(一七一六)二月二八日の日付や勧進僧をはじめとした千人以上の人名が刻まれている。鋳造は分けてつくられ、後で組み立てたもの。螺髪は大粒で旋毛型とし、肉髻と地髪の段差は明瞭ではない。肉髻珠・白毫相を表す。秀麗に目鼻立ちを表し、上唇と鼻の間の左右と下唇の下に髭を鋳出す。耳朶は紐のように伸び、環になる。首には三道を表す。左肩から右脇を覆う衣を着け、右手を頭の右脇に当て、肘を床に付け、左手は体側に沿って伸ばし、掌を脇の腿に当て、両足を伸ばし、右を下にして横たわる。頭部は前後に分けて鋳造し、耳の後ろを通る線で継ぐ。体部以下は大きく分けて体部前面、体部背面、左腕部、右腕部、両足先で構成される。それぞれはさらに、体部前面を七区に、体部背面は五区にというように分けて鋳造された。一時、裏山の洞穴の中に安置されていたが、明治十二年に現在の建物が改築された時に現在のように本尊として奉られた。明治十二年に作成された涅槃像略図が伝えられている。昭和四九年三月二七日夷隅町指定文化財指定・平成二年三月十六日県指定有形文化財指定になった。平成三年三月十二日、土岐家十六代土岐秀雄氏により、万木城三代城主土岐右京太夫源頼春公四〇〇年大遠忌法要と土岐家先祖代々追善法要が行われた。法要には、土岐家ゆかりの観世流謡曲、仕舞、万木城ゆかりの弥正囃子や剣舞の奉納、野立てによるお茶の接待、一斗樽の鏡開きなど、歴史や故事にまつわる多彩な行事が盛大に行われ、焼香に訪れた数百人あまりの人たちもその供養にあずかった。これを機に、土岐家より万木城主ならびに土岐家先祖代々の墓地改修、記念植樹、本堂内部の改修、仏具の整備に至るまでの特別志納がなされた。現在は、一七代当主大介氏が志を継いでいる。《配布資料》
万木の寝釈迦様 御開帳
堂内に入って間近で見られるのは、年に一度の御開帳のみで、それ以外の日は「いすみ市郷土資料館」へ問い合わせれば鍵を開けてくれる。開帳以外の日は施錠されて窓ガラス越しからの拝見となる。間近で「寝釈迦仏」を見ると寄進した人々の名前がハッキリと見る事が出来る。