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2016 |
市原市周辺は江戸時代初期から出羽三山信仰が大変盛んで、海保地区の人々も毎年羽黒山(山形県)などに参拝していた。行程には数十日もかかったが、海保の男は三山詣でをしないと一人前に扱われなかった。初めて無事に帰還した者は、「行人」と呼ばれ、その証しに「梵天」という御符をもらう。村の者がもつ梵天が増えてきたら、これを埋納する「梵天納め」という行事を行った。梵天納めは約二〇年に一度程度行ったという。この梵天を納める塚が、海保地区の丘陵の突端にあった通称「大塚」である。以前は漁師の海上からの目印ともなっていた。梵天納めの日は全ての梵天を神輿につけ、練り歩く。行列の前後には山車が六基くらい出たが、この山車の上で演じられたのが大塚ばやしであった。囃子は壮麗さや技法を互いに競い合い、それはにぎやかであったといわれている。しかし、盛大だった大塚の梵天納めも、大正十年を最後に途絶え、これに伴って大塚ばやしも自然に消滅する運命にあった。しかし、第二次大戦後間もなく囃子連ができ、その後保存会が整えられて、現在は海保神社の祭礼日などで定期的に演じられている。大塚ばやしは大太鼓1、小太鼓2、笛1、鉦1の構成で、動作が大きく派手なのが特徴である。技法的には神田ばやしの系統を引くものである。「五囃子」「岡崎」「大塚囃子」などの曲目があるが、「大塚囃子」の時には全身を大きくゆさぶりながら三色の房をつけた撥で太鼓を打ち、また時折高く投げ上げる「曲撥」も行う。かつての出羽三山信仰の興隆を今に伝える華やかな囃子である。《千葉県教育庁 教育振興部文化財課指定文化財班》
海保神社祭礼 大塚ばやし
平成廿八年三月十三日 当日次第
海保神社祭礼の期間中に「中郷公民館」前に大幟が掲げられている。この大幟は長辺10.5b・横幅1.2bあり、明治十三年(一八八〇)に二本制作されたとされ、古老が大きな幟と自慢げに話していた。大幟の下に設営されたテントでは、来訪客にも綿飴(わたあめ)が振舞われ、寒さが残る中で焚火にあたりながら祭礼の一日を過ごしていた。大幟には「巍然神徳充郷里(ぎぜん・しんとく・みち・きょうり)」(偉大な神の威徳が郷里に満ちる)と書かれている。また、「中郷さとやま会館」後方に出羽三山信仰の拠点となった、大塚山(海保大塚古墳)がある。もともと古墳だった場所を江戸時代に山岳信仰の塚として改変した。
※取材当日は小雨が降り出し、大幟着の時間が予定より早くなった。
※駐車は、海保神社の鳥居前は関係者が利用するので「発教山 学道寺(遍照院)」前の路肩が広いので、そこに駐車する。
※最終演舞の大幟での駐車は、シャッターが閉じていれば「果樹団地育成 海保集出荷場」を利用する。