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初午祭の神事に併せ、十二座神楽を奉納します。
この神楽は、立派だった社殿と共に明治三〇年に暴徒によって消失し途絶えてしまいましたが、再建とともに復活しました。
昭和三八年から五一年にかけて再度中断されましたが、五二年から現在と同様の神楽が奉納されるようになりました。
当初は、初午の日に行われていましたが、現在では、三月の第二土曜日に奉納しています。
◎稲荷大神御事暦沿革
氏神、稲荷大神は旧号を稲荷大明神と称したが、改号して「稲荷大神」と号す。祭神は「倉稲魂命」で神位は、「正一位」で天の下蒼生に衣食を授け賜うにより大元祖宗神とあがめられている。この地に勧請した年代については、天保元年(西暦一八三〇年)の本殿火災につづいて天保年中「別当宝珠院」の火災で年暦旧記等の焼失のため、定かではないが、口碑によれば平城天皇の大同二年(西暦八〇七年)二月創建と伝えられる。天保年間再建した社殿その他は、明治三年(西暦一八七〇年)十一月、柴山藩役所への上書により明かであるが、明治三十一年三月一日の出火により再び灰侭に帰した。この年十二月、拝殿を再建したが、本殿の再建については、微力な氏子では不可能なので信徒相議り広く有志の寄付を募り明治三十四年十二月起工、同三十六年二月上棟同三十八年竣工、同四〇年十一月、鍵元の鈴木家が、藤原国成銘の神鏡を奉納し遷宮式を挙げた。その後、昭和三十二年、本殿廻廊及び基礎を修理、同五十一年本殿及び拝殿の屋根を修理して現在に及んでいる。昭和六十二年二月 建立
◎本柏稲荷神社鳥居建立記念碑:本柏稲荷神社 御事歴 沿革
氏神本柏稲荷神社のご祭神は「倉稲魂命」で神位は正一位、天の下蒼生に衣食を授ける神である。天保年間(西暦一八三〇〜一八四四年)に二度の火災で本殿と共に記録か焼失したで定かではないが、古老の口碑によれば、平城天皇の御世、大同二年(西暦八〇七年)二月に創祀されたと伝えられる。天保年間に再建された神社も明治三十一年(西暦一八九八年)三月一日の出火により本殿、雨屋、拝殿とも焼失した。同年十一月拝殿新築、本殿の建造については氏子ばかりでなく広く有志の寄附を募り、明治三十四年十二月起工、同三十六年二月上棟、同三十八年竣工同四十年十一月、鍵元鈴木家から藤原国成銘の神鏡か奉納され遷宮式が挙行された。昭和初期第二鳥居修理と共に参道を現在の位置に改めた。昭和三十二年、本殿、廻廊及び基礎等の修理をする。昭和五十一年、本殿及び拝殿の屋根を葺き替え奉納、神楽を復活した。昭和六十二年、平成五年、氏子有志により桜、柏、杉等の植樹が行われ現在に至る。平成十年九月十六日、台風五号により第二鳥居が倒壊した。鳥居の再建について氏子一同が協議し、御影石で第一第二鳥居を建立することに決定した。十二月十四日から撤去工事に入り、十二月二十三日、新しい鳥居が建立された。これらの経費はすべて氏子の奉納によるものである。平成十一年二月十一日、建国記念日で初午の日、氏子全員により竣工式典を拳行した。鳥居の建立は氏子にとって大事業である。ここに由来を碑に刻み永く後世に伝えるものである。平成十一年四月吉日
本柏稲荷神社 初午祭
初午祭当日の午前八時から準備が始まり、神事は午前十時に執り行われる。祭典も終わり、昼前の午前十一時、社殿前で準備を整えた、子供神輿と御宮が境内の外へ運び出される。幟がある一ノ鳥居の前で神楽連が御囃子を奏で祭りが始まる。ここから村廻りが始まるのではなく、二ノ鳥居へと向かうのである。御囃子と供に御宮は二ノ鳥居まで担いで運ぶ、ここまでは普通の事であるが、社殿が見える二ノ鳥居から他では見られない行動が始まる。御宮の片方を地面に着けて、ずるずると社殿前まで曳いて行く。社殿前に御宮が到着するとクルクルと三回ほど回転させる。この作業が終わると、御宮は社殿の中へ安置される。これらの行動は何を意味しているのか分からないが、御宮を曳いた跡が神様が御通りになった道になって見えるのである。そして回転は、神様が降り立った事を意味しているのだろうか。神楽の前に不思議な行事がある。
※駐車は神社後方の道路に路駐しかない。