房総の祭事記 〜千葉の郷土芸能と民俗行事〜 モドル ホーム

嚴嶋神社辨財天 癸巳歳本開帳 六十年目大祭

◎磯村弁天島厳島神社の由来記
平安朝時代、仁明天皇の承和年間(西暦八四〇年頃)、唐より帰朝した慈覚大師が当地巡錫の折、弁財天女のお姿を自作されて此処に安置したと伝えられ、往時は浮島弁財天と云われ、房総屈指の漁村として、繁栄の名を歌われた磯村漁民の先祖が、大漁万作、海上安全、開運繁栄のお守り神として崇敬して、今日に残した古来からの伝統的な祭祀の行事が伝承されていることは広く知られていることでございます。爾来千有余年の永い歳月の間、台風や大津波や大地震など、幾多の天災地変に遭遇して参ったのであり、現在の弁財天尊像は、江戸時代、徳川吉宗の享保十五年(一七三〇)、その頃今より二百五十一年前御宮方大仏師杢之進の謹作された鎌倉時代の様式で、福徳円満なお姿にして、一面八臂の珍しい御座像と云われています。八つの手にそれぞれ右手には鉾矛、棒鎰箭、左手には鉾矛、輪宝、宝弓、宝珠を十五人の童子と牛馬を従え、頭に宝冠をいただきそのなかに白蛇がいてお守りする像であり、本格的な気品の高い彫像とされています。本開帳は六十年目、中開帳は三十年目に行われ、当日は岸より島迄の海上には船橋が架けられ、近郷近在より多数の参詣があり、珍しい行事としてもてはやされています。なお、例祭は一月十四日十五日の両日に行われます。

◎大浦の担ぎ屋台(市指定無形民俗文化財)
文安期(1444〜1448)、当地の漁師たちは紀州からの漁法「まかせ網」を導入し、次第に繁栄しながら漁業を営んでいましたが、荒れ狂う大洋での操業は過酷なもので、まさに命懸けでした。そこで、大漁満足、海上安全、さらには自らの無病息災と家族の安泰を祈り、その海のようすを表現しようと祭礼において創作されたのが「担ぎ屋台」です。天保4年(1833)に漁業の守り神、厳島神社(弁財天)の祭礼の際、初めて披露され、現在に至っています。「担ぎ屋台」は見事に波間に浮かぶ小舟を表しています。屋台は舟、担ぎ手は海そのもの、三本の棒は波であり、笛や太鼓は漁師の喜怒哀楽を表します。「担ぎ屋台」の巡行は非常に不安定で、激しく揺すって担いだりするため、傾いたり、我慢できずに地面に落とされることもあります。屋台には太鼓一人、小太鼓二人、笛吹き一人(現在、笛吹きは下に降りて吹いています)が乗り、にぎやかな囃子を演奏していますが、たとえ、屋台が傾いたり、落とされても演奏を止めることがないよう指導され、みな太鼓にしがみついたりしながら、夢中になって演奏し続けます。大漁を祈り巡行する担ぎ屋台は全国的にも珍しく、最終日、大浦・八雲神社の坂道を木遣りを唄いながら、ゆっくりと登っていき屋台を納め、お祭りは結ばれます。

嚴嶋神社辨財天 癸巳歳本開帳 六十年目大祭

Nikon D800 + 24-70mm F2.8G / 70-300mm F4.5-5.6G

本開帳当日 二〇一三年五月四日
早朝に御祭神の御霊を“輿”に移し、白丁の男衆が祭場の卸売市場まで運ぶ、そして式典後に女衆が“輿”を担ぎ、村廻りを行う。
午後からは御仮屋である、卸売市場に鎮座している、神輿と山車・担ぎ屋台が弁天島前まで移動する。
日が暮れて、夜のとばりが下りる頃に漁船の照明が灯され、光の道が弁天島までつながる。
三〇年に一度の祭礼に、お囃子の音色が漁村の村々に夜が更けるまで響き渡る。
※祭神:市杵島姫命(いちきしまひめ)

奉納日:平成二十五年五月四〜五日 本開帳 → 次回は2043年中開帳/2073年本開帳
伝承地:千葉県鴨川市磯村 鴨川漁港 嚴嶋神社辨財天