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社伝によると、元正天皇の頃(七一五〜七二三)大飢饉があり、この時常陸の鹿島明神の神勅を承けた別当平田権之頭が、氏子の川津三郎に重藤の弓を授け、「増間に往き此の弓をもって鳥獣を射て食糧とし郷民を救え」と伝え、増間に派遣されたとある。土地の人々が鹿島明神に救命の恩を感じて日枝神社の背山を鹿島山と名付け、頂上に鹿島明神を祀ると共に、毎年三月一日を例祭日と定める。増間の日枝神社で、稲作の豊凶を占う弓射の儀礼である。二月二六日の古式にしたがった的張りから始まるが、三月一日はおおむね次の順序で行われる。特定の家から選ばれた二人の射手は、朝から鍵元とよばれる氏子総代の家に赴き、新湯を浴び、更に垢離の渕で水浴潔斎して、紋付、羽織、袴を着用、所定の食事をすませ、鍵元に伴われ弓を携えて神社に上がる。十三時頃から神社で儀式の後、弓射の用意ができると約一時間にわたって、境内で弓を射ることが行われる。重藤の弓二張りと、二つの矢立に十二本の矢が準備され、二人の射手は的から二三間三尺(約43m)離れた鳥居の側の定位置に立って交互に射る。矢は、早生・中生・晩生の三回に分けて各々十二本ずつ射るので、延三六本射ることになる。矢の当たり具合をその都度記録係が記し、最後に神前で報告の後、年間の天候、適種豊凶などを占い、結果は印刷して参詣者や希望者に配る。これは一般に歩射といわれるもので、騎射が馬に乗って矢を射るのに対して、地面に足をつけて矢を射る作法で、元来、破魔の目的と年占の意味を兼ねた神事である。
増間の御神的神事
※雨雪でも実施する。