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2009 | 2006 |
◆天保十一年頃から安房の国では雨が降らず雨乞をしようと各地に呼びかけ、現在の長狭の大山に登り祈願をしたとされており、その時のカッコは四頭でした。雨乞の最中に大雨が降り、風雨、又雷鳴があり、四頭のうち一頭が池の中に飛び込み、水中に隠れてしまい、その後は残った三頭で踊るようになったとされています。五穀豊穣を願って笛や太鼓で踊り、各地でこのような舞が広がりました。その昔は七月七日に行われていたとされています。現在では毎年八月一、二日の両日に館山祭礼が行われる際、神輿と羯鼓舞が館山神社に奉納され、当日は区内の各箇所で休憩ごとに舞が披露されます。この羯鼓舞は、五〜六年もの間、途絶えてしまっていましたが、復活させて後世に受け継いでいこうと取り込み始め、今日に至っております。《館山青柳羯鼓舞保存会》 ◆震災、戦争、産業の変化。各地に残る伝承は、過去七十年程の間で様々な出来事に遭遇しながら、時には形を変えて今日まで続けられてきた。館山市下真倉に伝わる羯鼓舞も、そうした時代の変化を通ってきた伝承のひとつである。オヤ・ナカ・メスの三匹が笛にあわせて踊る獅子舞で、日枝神社例祭の八月一日に地区内の十ヵ所ほどで披露される。踊るのは小・中学生の男子だが、珍しいことに場所ごとに踊り手が交代する。従って全部で二十名ほどの踊り手がいて、全員に出番がまわるように、踊る場所の数をその年々で設定するのである。旧来続いていた羯鼓舞は、第二次世界大戦で中断した。昭和二十九年に青年団が中心になって復活したが、二年ほどでまたも中断。昭和五十年代に再度復活したが、肝心の青年の地元からの流出で存続が危うくなり、主体を子供たらに移すことで乗り切った。夏休みに人ると、例祭までの十日間、踊りと笛の練習がにぎやかに続けられる。指導にあたるのは、青年団時代に厳しい練習をうけてきた世代の人たちである。かつて、ササラの女児も加わって雨乞いを目的に踊ったものも、現在は親・子・係の三世代で協力して祭りをつくることに意義がおかれるようになった。数々の禁忌を守りながらかたくなに受け伝えられるもの、変化に適応できずに消えていくもの、いろいろあるなかで、形を変えつつ時代の変化を受け入れるこの羯鼓舞も、生き残りをかけた伝承のひとつの姿であろうと思うのである。《館山市立博物館報 第47号(平成六年六月二五日) 安房の民俗芸能誌11 下真倉区青柳の羯鼓舞》
青柳の羯鼓舞
現地に着いたら、羯鼓舞が始まっていた…。
詳しい日程の情報を得ていなかったので、冒頭のシーンは撮影出来ませんでした。
撮影が出来たのは終了間際のところだけです。