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2007 | 2005 |
和名妙(九三五年頃、源順(みなもとのしたごう)が編集した日本で最初の漢和辞書)に記されている「大瀦郷」は、現在の安馬谷及び周辺地域のことで、八幡神社はその郷社であったそうです。また、安馬谷という地名の起こりは、承久二年(一二二〇年)頃から、千倉の下立松原神社の神事に「鞍馬」を差し出したことに由来していると伝えられています。「御神的」神事は、源頼朝が天下泰平を祈願して流鏑馬を行ったことから、当社でもこれを奉納するようになったと伝えられていて、昔は馬上から三つの的を射ましたが、ある年に矢が、誤って見物人に当り大事故になったことから、現在のように境内で歩射を行うようになり、毎年三月三日の五穀豊壌の祈年祭に、社前で行われています。お的は、新しい女竹で六尺角の井桁を編んで、白紙をはり、中央に径一尺一寸の黒丸を書き、その外側に五寸五分間橘で白と黒の輪を交互に描いて作成します。弓は、昔「重藤の弓」を使用しましたが、現在は新しい真竹で作り、矢は、失竹を用いて鷹羽根をつけています。射手は、全区民を代表して区長がつとめ、奉射する失の数は、全部で九本です。古来からの伝承で、最初の三本が早生、次の三本が中生、最後の三本が、晩生のそれぞれの作柄を占っていますが、その占い方法は、おおむね次のとおりです。「中心の黒丸に当たれば九分作、次の白輪に当たれば八分作、その外側の黒輪に当たれば七分作、その外側の白輪に当たれば六分作、一番外側の黒輪に当たれば五分作」。矢は、一本ずつ奉射され各々三本の矢の平均で判定されます。こうして作物の豊凶や天候の状況を占った御神的の結果表は、神前に供えられた後、全区民へ知らされ、作付する品種や田植え時期等を、各人が判断して、その年の農業の計画を立てることになっています。
安馬谷八幡の御神的
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